文学

スポンサーリンク
文学

数奇者

森鴎外は、小学校入学以来、軍医として陸軍省に勤務している状態にいたるまで、自らの生活を、「芝居をしているかのようだ」と言っています。演出家は世間、自分は役者というわけです。 そして、深夜、読書や執筆に励む自分を、化粧を落とした状態だ、とも。 それなら、もはや芝居で活躍できなくなった私は、数奇者として生きる他ありません。 鴨長明は、「発心集」で、「数奇」を、「人の交わりを好まず、身の沈めるをも愁へず、花の咲き散るをあはれみ、月の出入を思ふに付けて、常に心を澄まして、世の濁りにしまぬを事とす」と、説明しています。 現代では、その語感から、「色好み」とする向きもありますが、それは字が違います。 職場で腫れ物扱いされている以上、せめて拙い化粧を落とした私は、数奇を気取りましょう。
文学

鼠三部作

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)村上 春樹講談社羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)村上 春樹講談社1973年のピンボール (講談社文庫)村上 春樹講談社風の歌を聴け (講談社文庫)村上 春樹講談社 雨に閉じ込められて、古い小説を読みました。  村上春樹の通称「鼠三部作」。 「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」です。 私はこれらを、高校生の頃から、繰り返し繰り返し、読みました。 文体は軽快。内容は切なくて不思議。 その後「ダンス・ダンス・ダンス」という続編が発表されましたが、私はこれを良しとしません。 「ノルウェイの森」がベストセラーになりましたが、通俗の感は否めません。 私は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をもって、村上春樹の世界は完結をみたと思っています。 ノーベル文学賞の声も上がっています。是非、受賞してほしいと思っています。
文学

新釈 四谷怪談

小林恭二の新作評論「新釈 四谷怪談」を読みました。 「四谷怪談」が「忠臣蔵」の裏の物語であることは、多くの学者によって指摘されていますが、この著書ではそれには多く触れていません。 「四谷怪談」を、貴から賎へ、聖から俗へ、の逆転の物語と捉えたうえで、さらに、女性解放の先駆けとなった物語と捉えています。 おもしろい見方です。 この歌舞伎が初演されてから約40年後に明治維新が起こっています。その後、女性解放は高らかに宣言されることになりますから、それに先駆けて、お岩様という祟り神が武家の男や、その係累を祟るというのは、江戸末期にあっては精一杯の女性解放運動だったかもしれません。 それにしても、小林恭二は最近、歌舞伎の評論ばかりで、小説を書いてくれません。20年来のファンである私は、小説を待ち望んでいます。新釈四谷怪談 (集英社新書)小林 恭二集英社
文学

公園

吉田修一の芥川賞受賞作に、「パークライフ」という小説があります。 日比谷公園での男女の出会いを描いた小説で、そこはかとなく切なくて、良い小説だと思いました。  今日は朝8時から2時間ちかく、散歩しました。 途中、公園のベンチでうとうとしました。そこで聞こえてくるのは、女性の声ではなく、定年後と思しき老人たちの大きな声でした。口々に昔の自慢話をしています。老人にとって、過去の記憶は光り輝く宝物なのでしょう。 私は期間限定の世捨て人ですが、老人のように元気だった頃の自分を懐かしむのはやめて、もう一度、世の中で生きてみたいと思うようになりました。 私を侮辱した上司への激しい憎しみも、なくなりはしないものの、薄らいできました。主治医は、あまりに激しい憎しみも、精神病の症状の一つと考えられる、と言います。 それなら私の精神病は、快方に向かっていると考えてよいのではないかと思います。
文学

同性愛

耽美主義の芸術の系譜には、同性愛を扱ったものが多くあります。 文学ではジャン・ジュネ、ヴェルレーヌ、ランボー等。 映画では、古くは「モーリス」、その後「ブエノスアイレス」、「太陽と月に背いて」、最近では「ブロークバックマウンテン」等。邦画では、「二十歳の微熱」などがあります。 「モーリス」だけは、公開当時、私自身が紅顔の美少年であったため、邪まな目でこの名画を見に来るお姉さまたちの視線が怖く、劇場に足を踏み入れることができませんでした。 「モーリス」はビデオで観たのですが、衝撃を受けました。単純な耽美主義の同性愛映画ではなく、社会と個の関係、非社会的な愛を、美しい映像で鋭く描いていたからです。お姉さまたちがマニア的に劇場に殺到しなければ、この映画はもっと正当に評価されていただろうと思います。 私はもう1年以上、享楽主義の同性愛者の兄と、求道的な弟の葛藤を描く長い小説に取り組んでいます。 同性愛者を描くと、そこには必ず、差別の問題や、社会的常識に反して生きる者の生き様などが浮かび上がってきます。 物語を作る欲望に取りつかれた者にとって、たいへん魅力的な題材です。モーリス HDニューマスタ...
文学

本朝聊斎志異

夏といえば怪談。 そこで、私が最も尊敬する現代作家、小林恭二の「本朝聊斎志異」を読みました。 「聊斎志異」といえば、清代の著名な怪異譚ですが、小林恭二はこれを底本に、見事に本朝にうつしとっています。悲劇・喜劇・怪異のオンパレードです。 物語を読む楽しみは、元来、このような、この世ならぬお話に尽きると言えます。 充分に堪能しました。本朝 聊斎志異小林 恭二集英社
文学

白浪五人男

7月25日(金)の深夜にNHKで放送された「劇場への招待・『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうし はなの にしきえ)」を録画したビデオを観ました。 通称「白浪五人男」で知られている歌舞伎です。 歌舞伎特有のご都合主義も気にならない、娯楽作でした。 尾上菊五郎演じる弁天小僧の江戸弁にうっとりとし、悪を描く徹底ぶりに圧倒されました。 作者の河竹黙阿弥については、小林恭二の評論「悪への招待状」がお勧めです。
文学

伊勢物語

ぼんやりした頭で、「伊勢物語」を二十年ぶりに再読しました。 二十年前は、西洋文学に興味があったので、「伊勢物語」を読んでも、物語の体をなしていないように感じましたが、今読むと、日本独特の、想像力を誘う物語形式であると感じました。 いわゆる「色好み」の「歌物語」ですが、現在、このような形式で物語を作ることは極めて困難でしょう。 歌が物語の中心ですから、極端に言えば、和歌集にちょっと長い物語風の注釈をつけただけのようにも見えます。 しかし、有名な伊勢斎宮との密通など、ショッキングな内容も含んでおり、そうした読み方は間違いでしょう。 やはり、「伊勢物語」は独特の形式を確立したものと言わざるを得ません。
文学

モンキー・ビジネス

今年の春に創刊された季刊文芸誌「モンキー・ビジネス」2号を購入しました。 「眠り号」とのことで、睡眠に関する小説や詩を掲載しています。異色なのは、中島敦など、昔の作品も掲載していることです。 私は、昔、夢日記を付けていたことがあります。しばらく付けていると、夢の記憶があまりに鮮明になって、現実と夢を混同するようになり、半年ほどで止めました。筒井康隆も夢日記を長年付けているとか。大丈夫なんでしょうか。
文学

源氏物語「大沢本」

源氏物語「大沢本」の発見がニュースになっています。 千年紀に合わせて発表した感があります。 学生時代、「源氏物語」青表紙本を、昭和天皇の作歌指南役で、現代を代表する歌人、岡野弘彦先生から教わりました。 そのとき、岡野先生が「源氏の研究は始まったばかり」、と仰って、何を馬鹿な、と思いましたが、今回の発見で、そうなのかも、と思いました。 岡野先生は、現代版「伊勢物語」を書きたいという理由で、私が四年生のときに退職されました。今でも時折テレビなどでお見かけします。 「サラダ記念日」が売れたとき、俵万智と岡野先生を比較する論文が発表されて、激怒されたのを懐かしく思い出します。
文学

山頭火

種田山頭火の句集を読みました。 いわずと知れた自由律俳句の巨人です。 人生の後半を乞食坊主として、日本国中を歩き、句作を続けた俳人です。その精神には、芭蕉や西行とも違う、何か鬼気迫るものがあります。 風雅などではなく、漂泊そのもの、孤独そのもの、諦念そのもの、自然そのものが詠みこまれています。 それだけに、私には、山頭火の句が、恐ろしく感じられます。そんなこと詠んじゃっていいの、と問いたくなります。 例えば、「生死のなかの雪ふりしきる」「月が昇ってなにを待つでもなく」「うつむいて石ころばかり」「酒をたべている山は枯れている」 等の句。 反則ばかりです。 しかし、反則なのに、魅力的です。 私は、精神病を患い、ただ茫漠と日を送っていますが、山頭火は、ひたすらに生きました。私はその在りように、嫉妬を感じます。
文学

狂言「入間川」

昨日、テレビで狂言「入間川」を観劇しました。野村万作・萬斎親子が競演する豪華なものでした。私はおおいに笑いました。 かつて、狂言(喜劇)は、能(舞踊劇+歌劇)と同格に扱われていました。しかし、能が武家のたしなみとされるにつれて、狂言は能より一段低いものという認識が広がりました。もったいないことです。 かつて、喜劇である狂言を、能と同様に重視した感性を忘れたくないものです。
文学

青山娼館

小池真理子の「青山娼館」を読みました。 この高名な女流作家の小説を、ときどき、読みます。流麗な文章で一気に読ませる、うまい作家だと思います。 表題作は、青山の高級会員制売春宿で働く娼婦の物語です。 殺人劇でもないのに、作中四人も死人がでるのは不自然な感じがしましたが、まずは楽しめました。
文学

砂粒

あらゆる古典は、人類にとって金や銀です。歴史という風雪にさらされながら、生き残ってきたのです。それに触れずしては、この世に生まれた意味は半減します。 一方、歴史の風雪に耐えられなかった芸術作品も多くあります。 それらを、倉橋由美子は、「砂粒のような作品」と呼びました。 しかし、多くの砂粒があったればこそ、金や銀の貴重さがわかるのだ、とも。 今、生み出されている芸術作品が遠い未来において、金や銀になりうるかどうかは、神のみぞ知るところです。 しかし、砂粒も悪くはありません。それが金や銀を輝かせるのであれば。 ことは、芸術に限ってはいません。 人生全般においてそうです。  私の人生が、精神的病に冒され、無価値なものであったとしても、堂々と、私は砂粒だ、と言えれば、良いでしょう。例え自殺しようと、それは砂粒にとって精一杯だったということです。
文学

能楽

最近、能楽の全集を手に入れ、これをぱらぱらとめくっています。 もとより、私は能楽に関しては数回の鑑賞経験があるだけの、素人です。  日本の古典文学は、美と仏教とが融合したものと思われます。  古くは、美を代表する「源氏物語」や「新古今和歌集」などと、仏教を題材とする「今昔物語集」などに二分されていたように思いますが、能楽の完成に至って、これらは融合されました。 幽玄の美、と称せられる能楽には、たいてい、僧侶ともののけが同時に登場します。言うまでもなく、もののけは、美や、この世ならぬものへの予感、つまり芸術そのものを表し、僧侶は仏教哲学を代表します。これらが互いに主張したり、戦ったり、最後には大団円へと向かうさまは、圧巻です。 能で演奏される音楽も、見事にそれらの融合を表しているように感じられます。 最大の難点は、能面をかぶったりしているため、セリフが著しく聞き取りにくく、眠気を誘うことでしょう。
スポンサーリンク